八洲学園国際高等学校 開校日記

2000年に開校した「八洲学園国際高等学校(現:八洲学園大学国際高等学校」の開校までの軌跡です。

これまでの高校システムでは救えない問題があった

今は2005年8月。忘れそうになっている7年前の記憶を辿りながら書いている。 いま書き残しておかないと、残せないなのではないだろかという強迫観念に駆られて書いている。 何が残せないかと言えば、この高校の存在理由である。 2000年4月に日本初がいくつもつくような高校を作った。その時の熱い思いを残しておきたい。

通信制・単位制高校の誕生

そもそもこの高校の母体は八洲学園高校という通信制・単位制の高校である。この高校も高校中退者のために高校という、それまでにない新しいタイプの学校である。通信制高校は昔からあるが、それは経済的な理由などで全日制高校へ行けない方のための高校でしかなかった。その高校に単位制という新たな概念を付け加えることで、まったく新しい高校が誕生した。単位制は卒業に必要な単位を学年に関係なく修得することで卒業が可能となる。その単位は別々の高校で修得したものでも構わない。このことで、高校を中退した人も、それまでに修得した単位を生かして、別の高校で学習を続けることができる。単位制とは高校中退者がもう一度高校へ戻るための仕組みと言っても差し支えない。 そのことは臨教審の答申にも書かれている。それの趣旨を最大限生かして、通信制と組み合わせて誕生したのが八洲学園高校だ。この高校の狙いはすぐに社会に受け入れられ、あっという間に1万名の在籍者を抱えるまでになった。しかし、当時、この高校の校長をしていた私は、この高校のシステムでも救えない問題もまた分かってきた。

これまでの限界(通信制)

通信制とはいえ、一定時間は教員の直接指導を受けることが義務付けられている。おおよそ年間で20~30日程度の登校は必要である。全日制のことを思えば、かなり少ないが、家の近くに通信制高校があるという人は例外で、多くの方は遠くまで出かなければならない。しかも、その出かける先は、多くの場合、全日制高校である。つまり、他の高校生が普段使っている教室を借りて授業を受けることになる。不登校の生徒さんにしてみれば、たとえ週に1度や2度といっても学校に行くことは大きなハードルである。にもかかわらず、行かなければならない学校には自分のための教室も下駄箱も用意されていないことになる。八洲学園高校は、立派でもなく、大きくもないが、そういった生徒さんのためだけに校舎や教室を用意した。それもできるだけ通学の便利な新宿、渋谷、梅田などの駅の近くに何箇所も。そのことが、多くの生徒さんの支持を得たのではないだろうか。しかし、このように多くの教室を設けるにも限界がある。全国津々浦々に教室を展開するほどの人的、経済的な力は残念ながら持ち合わせていなかった。また、多くの生徒数が期待できない地方では、授業料を高く設定せざるを得ない。登校日数が全日制の10分の1ということは、専用の校舎・教室を用意した場合、10倍の生徒さんで利用しないと割高になってしまう。しかし、多くの中退者や転校生は県立高校出身である。ある日、突然に中退や転校となり、加えて多額の授業料を負担することは保護者にとっては二重の苦しみとなる。しかも、残念ながら、通信制には全日制のように行政からの手厚い補助金は支給されない。

これまでの限界(単位制)

単位制は好きな科目を選択できるのも魅力の1つである。好きな科目を選べるということは、嫌いな科目を選ばなくても良いということになる。さらに、八洲学園高校では、通信制では必須のスクーリングを必要な時間数の3倍程度は開講し、生徒さんが好きな時に受講できるようにしている。また、スクーリングを受講する会場も関東、関西に10箇所設置し、生徒さんが選べるようにしている。このような選択の幅は、人間関係つまりクラスの人や先生との関係がうまくいかなった場合の逃げ場所を確保することになる。うまくいかない人と同じクラスになりそうなら、別の日に受講する、違う科目を選択する、そでもダメなら違うスクーリング会場で受講することもできる。このような選択の豊富さは、受講生の多さに支えられている。 1万名という受講生がいても、これだけの選択肢を用意すると、時には教室に10名の生徒さんもいないということさえある。 1箇所のスクーリング会場で最低1000名の在籍者がいなければ、このような選択肢を提供することは難しい。人数が少ないと、人間関係がこじれたときに、逃げ場がなくなり、退学せざるを得なくなる。しかし、地方では1000名の生徒を確保することは不可能である。選択肢を狭めてしまうと、中退者のための高校としての機能が不完全となる。仕方なく、関東、関西以外の方には入学をあきらめてもらうしかなかった。

ブレークスルー

地方からも入学したいという要望を多数頂いていたが、従来の方法では、名古屋ですらスクーリング会場の設置は不可能という結論になった。なんとか他の方法で実現できないだろかと、いろいろ模索している中で、一つのヒントに出くわした。首都圏の人口は3000万、京阪神が約2000万人である。日本の人口は1億2000万ということは、それ以外の地域で7000万人もいることになる。各都道府県単位でみると、少ない人口でも、まとめると首都圏より多くの人が住んでいることになる。つまり、地方をバラバラに見るのではなく、1つの集合とみなせばいいのではないか。そんなアイデアが浮かんできた。かといって、スクーリングは対面で行うことになっているので、インターネットでというわけにはいかない。教員が出向いても数はまとまらない。となると、全国の生徒さんに集まってもらうしかない。まさかはるばる遠方から日帰りというわけにはいかないので、宿泊することになる。ちょうどそのころ、「合宿免許」といって、地方のホテルなどに宿泊しながら車の免許をとる方式が流行り始めていた。地方なので、教習所の費用も安く、宿泊代を払っても都会で免許を取るより割安というわけだ。スクーリングのために生徒さんは年間20~30日は登校する必要がある。 30日として往復に2000円かかると年間に通学代に6万円もかかることになる。それだけかかるなら、合宿した方が安いかも知れない。

合宿

さっそく、年間に必要なスクーリングを合宿で集中的に実施すると何日で終わるかと計算してみた。単純に計算すると10日以上かかる。しかし、スクーリングはNHKなどの教育番組を視聴することで、一定の割合を免除できる制度がある。これをフルに活用すれば、1週間で1年分のスクーリングを受講できる。 1週間の合宿ですべてのスクーリングが受講できるのであれば、現実性がある。合宿を年間に何度も行えば、好きな1週間を選ぶことができる。これであれば、仕事をされている方も参加できる。 1年は52週間あるので、年に40回程度は実施できる計算になる。 40回の選択肢があれば、十分だろう。しかし、「合宿で高卒」などと言えば、頭の固い人からどんな批判を受けるか分からない。言い方は要検討。しかし、枠組みとしてはいけそうだ。次の問題は、どこで合宿すればいいのか。

候補地

合宿免許を倣えば地方が候補となる。交通の便を考えると東京だろう。しかし、不登校の生徒さんに来てもらうためという視線を抜きに場所は決められない。また、東京や大阪では、すでにいくつもの通信制高校があり、ますます都会の人が便利になり、都市一極集中を助長するだけで、気がすすまない。地方の人が東京に来て、合宿しても何の意味も見出せない。東京、大阪はまず除外だ。教育的効果のある場所となると、自然が豊かな場所となる。通常、そういう場所は不便なところにある。全国の人が等しく集まりやすく、自然が豊かな場所となると、北海道か沖縄だろう。いずれも飛行機を使えば、全国からアクセスが可能である。小笠原や軽井沢、箱根なども考えてみたが、いったん東京を経由することになり、東京の人が有利になってしまう。それ以外に地方のリゾート地では、アクセスが極端に悪い。地方と地方を結ぶ交通網がまったく整備されていないのが日本の現状である。その点、北海道、沖縄は多くの地方路線と結ばれている。特に沖縄は主要な地方空港から直行便が出ている。そんなわけで、北海道と沖縄に絞ってまずは、現地を見ることにした。

アクセス

飛行機でとなると、その費用も考えておく必要がある。北海道も沖縄も観光地なので観光シーズンには航空運賃が高くなる。航空運賃が高い理由の1つにJALとANAの独占体制がある。今では北海道にエアーDOが出来たが、経営状態は良くないようだ。沖縄にも以前は南西航空という沖縄独自の航空会社があったが、やはり経営状態が悪くなり、JALグループに入り現在JTAとして運行している。その2社独占による航空運賃の高騰が沖縄の観光にも悪い影響があると考えて、サザンクロスという沖縄の航空会社設立の動きがあった。私としても期待したが、その後、レキオス航空に名称を変更したものの、結局計画は断念したようだ。JALとANAに頼るしかない状態では、運賃は数の論理で交渉するしかない。ある程度の生徒数を確保し、チャーター便も含めて検討する必要がありそうだ。最近になって、スカイマークが沖縄線に参入したことで、運賃に影響が出ることを期待したい。

定員

土地を探すにあたっては、校舎の大きさを決める必要がある。高等学校通信教育規程で通信制高校の校舎の最低面積は1250平米(その後1200平米に改正)と決められている。これは最低基準。今回はこの面積に加えて宿舎も建てる必要がある。そのためにはまず定員を何名にするかを決めなければならない。八洲学園高校は当時すでに1万名の在籍者がいる。関東、関西だけでこれだけの在籍者がいるわけだから、それ以外の地域すべてを対象とすれば、2万名でもおかしくない。しかし、毎年、2万名をスクーリングで受け入れるとすると、いったい同時に何名が合宿するとになるか。計算は簡単だった。1年間は52週間ある。正月やお盆はさすがにスクーリングは実施しないとして、年間40週くらいはできるだろう。2万÷40=500名である。500名も同時に宿泊してスクーリングをするというのは現実的ではない。逆に同時に合宿できそうな人数は何名だろうか。全員の名前と顔を把握できる規模を基準に考えると、100名程度ではないだろうか。学校は40人の倍数で考える習慣があるので、120名をベースに考えると120×40=4800となる。実際は42週くらいはできるだろうからか、切りよく5000名定員をターゲットにすることにした。となると、最低限、120名が同時に宿泊できる宿舎と1250平米以上の校舎が建築できる土地が必要ということになる。6名が1室として20室は必要。教員も一緒に宿泊することを考えると24室は必要だろう。1室が20平米として500平米。しかし、食堂やシャワー室などは校舎面積にはカウントされないので、これらのスペースも必要となってくる。東京と違って、土地はさほど高くないので、広めに確保した方がいいだろう。

沖縄

北海道のベストシーズンは夏だろう。大きな大地に囲まれれば豊かな気分にもなれる。しかし、問題は冬だ。スキーが好きな人なら問題ないが、そうでなければ、冬の寒さは、慣れない人には厳しすぎる。その点、沖縄はオールシーズン快適である。エメラルドブルーの海、白い砂浜、暖かな風、豊かな緑、どれをとっても心を癒やしてくれる。不登校や高校中退という壁を乗り越えるにはもってこいの土地だ。 25年ぶりに沖縄に降り立った瞬間に沖縄に決まった。問題は、沖縄は土地が高いという点である。もともと島が小さい上に、平野部が少ないため、利用できる土地がわずかしかない。そのため沖縄の土地は意外と高い。北海道や軽井沢では坪何千円という単位の土地があるが、沖縄ではそんな土地はなさそうである。沖縄に知り合いがいるはずもなく、とりあえず、県の宅建協会に電話をして、不動産屋さんを紹介してもらった。その中の何件かに条件を言って、土地を探しもらうことにした。

県との交渉(1998/09/18)

土地探しと平行して、沖縄県と高校認可についての交渉を開始した。北海道にはすでにいくつかの私立の通信制高校があるが、沖縄県にはまったくない。当然、県の担当者も知識など持ち合わせていない。とりあえず、一度訪問して説明することにした。まさか、この後、何十回と訪問することになるとは思いもしなかった。とりあえず、八洲学園の概略と通信制高校を作りたい旨、またスクーリングを1週間集中的に行いたいということを伝えた。県の担当者は意外と積極的に耳を貸してくれた。まずは、好感触である。

本部町(1998/09/21)

いくつかの不動産屋さんから連絡が入ってきた。さっそく見に行く。東京で土地を買うのと違って、沖縄では気をつけなければならない点がいくつかある。単に景色がきれいというだけで購入すると、あとあと高くつくからだ。いくつか見た中では、橋を架けないとたどり着けない土地もあった。海が目の前ながら、国道を横切るため、安全に海に行くには歩道橋が必要なところもあった。下水道が未整備の町村も多い。大きな土地に学校を建てることになるため、事前に役場との調整も必要となる。協力的な町と、そうでない町がある。その当たりの情報も重要だ。さらに高校の認可は県の所轄だが、沖縄では市町村の意向がかなり影響するため、県と町との関係にも気をつける必要がある。政治的な話をすると、町長と知事の距離も測らなければいけない。そこで、具体的な場所を決める前に、どの町に設置するかを決めるのが得策と考えた。東シナ海に面した町村であれば、海が見える土地は必ずある。恩納村、読谷村、名護市、本部町、今帰仁村から、町の通信制高校への理解、県との関係をみながら、絞り込んで行った。

我那覇さん(1998/10/17)

宅建協会の紹介から我那覇さんという不動産屋さんに連絡をして、お会いすることになった。作ろうとしている高校の趣旨をお話すると、深く共感していただいた。その後、単に土地を紹介するという枠を超えて、さまざまな協力をしていただくことになる。知らない土地に行って、仕事をするわけだから、地元の協力者は必要不可欠だ。特に地方では、よそ者に対して強い警戒感がある。私が表に立つのではなく、地元の方に間に入ってもらう方がうまくいく。我那覇さんには、地元との調整にかなり尽力いただいた。役場との調整はもちろん、町長や議会、知事へのパイプも引いてもらった。そのお陰で、町や県との関係も良好で、下水道も整備されている本部町が第一候補となった。その我那覇さんの紹介してもらった土地がまたすばらしい。もともと、本土の業者がリゾートホテルを建てる予定で買収を進めていた土地だけあって、景色は抜群である。歩いていけるところに海洋博記念公園があり、ライフセーバーが常駐しているビーチもある。しかも、すでに名義が本土の業者になっているため、農地から転用する手間がない。農地は個人しか所有できないため、学校法人が購入するには、農地を農地以外に転用する手続きが必要となるが、それが意外と大変な手続きである。その必要がないのは助かる。もっとも、農地といっても、耕作を放棄したような農地が大半の地域ではあるのだが。他に町が無償で提供しても良いという申し出を受けた土地もあったが、費用の問題よりロケーション優先である。学校を一度作ってしまうと、そう簡単に移転はできない。ここは、無料に惹かれて妥協するより、ベストの土地にすべきだろう。

認可のための作戦(1998/10/21)

土地を見に行ったついでに、県庁に寄った。本部町が町長自らが熱心に誘致し、すでに本部出身の県の職員の人も動いていることを話すとかなり前向きに検討してもらえそうな雰囲気になった。しかし、町が熱心で県としても前向きとしても、認可するには認可に値する理由をちゃんと説明できなければいけない。県の担当者が議会や私学審議会に対して堂々と学校の必要性を訴えることができるような理由を資料を揃えて用意する必要がある。 今回の計画は大きく3つの日本初が伴う。1つ目は、最初から全国を対象とする通信制高校の認可を目指すこと。実は、通信制高校には2種類ある。1つは学校のある県とその隣接する県の2つの県からしか生徒募集をしない狭域通信制。もう1つが3つ以上の県から生徒募集をする広域通信制である。しかも、広域といっても募集できる都道府県を1つずつ指定されるので、47都道府県で生徒募集をしている通信制高校はNHK学園の1つしか存在しない(その後、増えている)。その47都道府県対象の広域通信制を目指すのである。2つ目は、通常は広域通信制は最初は狭域通信制として認可を得て、その後地域を広げて広域となるが、今回は初年度から広域を目指す。八洲学園高校も最初は大阪と兵庫だけの狭域からスタートし、5年後に広域になった。3つ目は、1週間の集中スクーリングという方式である。通常は学期を通して計画的に学習することが望ましいとされるため、1週間だけ集中して学習するという形態は存在しない。この3つの日本初を県と文部科学省に納得させなければならない。

作戦1

まず、生徒募集地域だが、狭域であれば、隣接する1つの県は自動的に生徒募集地域に入る。では、沖縄に隣接する県はどこだろう。どの都道府県でも良いことになる。しかも、今回は飛行機でわざわざ沖縄へ来るわけだから、通学の便を考えて隣接する県を決めるのはナンセンスとなる。1つに決めかねるから全部、という無茶な論理である。そもそも隣接する県までという制限は、学校まで通える範囲という発想からきているようだ。となれば、通学しない合宿形式であれば、どの都道府県から入学しても問題ないことになる。どこか1つに決める合理的根拠が見当たらない。どこも入れないか、全部入れるかの2択になるというわけだ。通常、広域の場合は、生徒募集する都道府県に対して県から照会するらしい。その県の高校生を受け入れるわけだから、当然と言えば当然かもしれない。しかし、照会された県からすれば、わざわざ他の県の高校に自分の県の高校生が入学することを快く思うわけもなく、ほとんどは「県内の需要は満たしていますので、生徒募集地域に入れるいただく必要はありません」という回答になる。しかし、回答がどうであろうと、認可するのは沖縄である。

作戦2

沖縄は特殊な県である。沖縄開発庁が管轄している(現在は内閣府沖縄振興局に再編)。戦後の復興を国が支援しているわけだ。そこで、各都道府県は沖縄の復興に役立つことを拒むことには躊躇する。そこで、通信制高校を沖縄に設置することがいかに沖縄の経済的復興に役立つかを説明することが、認可の早道と考えた。実際、本土の生徒さんが沖縄へ来て1週間過ごすわけだから、経済的効果も無視できない。広域通信制は県を通じて文部科学省の届けることになっている。複数の都道府県にまたがるので文部科学省が調整しましょうということだろうが、実際は文部科学省の指示通りに各都道府県は認可する。そのため、通常であれば文部科学省に直接説明するのも一つの方法だが、沖縄開発庁経由で文部科学省へ説明してもらう。また、北海道にはすでに私立の通信制高校があるにも関わらず、沖縄にはないというのも、立派な理由になる。北海道と沖縄は結構ライバル心があるようだ。

作戦3

集中スクーリングという方法は理論的には学習指導要領の要件は満たすので、問題とならないはずだが、教育的云々という話に巻き込まれると議論の出口が見えなくなる。そこで、スクーリングを集中的にやっている通信制高校がないかと調べてみた。すると、NHK学園が3泊4日で各地の青少年センターのようなところを借りてスクーリングを実施していることが分かった。このスクーリングだけで必要なスクーリングが終わるわけではないが、集中的に実施している前例は見つけた。しかも、全都道府県で実施しているわけではなく、全国数箇所程度しか実施していない。ということは、多くの生徒さんは、遠方まで出向いて合宿しているのである。 NHK学園としては、近くにスクーリング会場がない人のために、補助的な手段として使ってるだけのようだが、合宿による集中スクーリングが認められていることには違いない。しかも、今回は、単に利便のために合宿するのではなく、教員と寝食をともにすることにより、教員や生徒さん同士のコミュニケーションを図ることで、不登校などの障害を克服しようというのである。合宿そのものに意味がある。

沖縄らしさ(1998/10/24)

沖縄の土地を見て回ると同時に、沖縄らしい建物も探して回った。校舎の参考にするためだ。沖縄の建物は本土とはまったく違う。それが何か外国に来たような気分にさせてくれるのかも知れない。東南アジアに共通した雰囲気がある。まず、木造の家はほとんどない。沖縄も材木となる木がまったくないわけではないが、いまは林業は行われいない。材木はすべて海外か本土から持ってくる必要がある。それだけのコストをかけて木造の家を作ろうという人はまれである。昔からの家には木を使ったのがまだ残っているが、今はほとんどがコンクリートに赤瓦という形式である。壁は白かブルーのペイントが多い。赤系は太陽の光ですぐに退色してしまうので、あまり使われない。校舎の参考にするには、民家より米軍基地や青少年施設がいい。渡嘉敷島に行った際に、見かけた国立青年の家は参考になった。米軍基地は一面の芝生に施設が点々と置かれている。これもかなり印象に残った。青い海と緑の芝生、白い建物、この組み合わせがベストではないだろう。

校地決定(1998/11/30)

校地は最終的に本部町に決定した。年内の契約に向けて細かな詰めを急ぐことになる。土地取引のためには、面積や境界を確定するための測量もしなければならない。その測量をするためには、まず、背丈以上に伸びている雑草を刈る必要がある。草をとれば、景色もよく見えるようになるだろう。 土地が決まったところで、この土地を造成するにあたっては、地元の方への説明会が義務付けられている。 ここで思わぬ誤算があった。なんと大反対なのである。学校の趣旨を説明する前に、どうも変な噂が流れていたようだ。 不良ばかりの学校ができるらしい、そんな噂のようだ。 田舎ではまだまだ、高校中退=不良という図式で思われているのだろう。 いくら説明してもなかなか理解してもらえない。いままでやってきた教育が否定されているようで悔し涙がこみ上げてくる。 それでも、粘り強く交渉を続けていくしかない。実際に学校が出来た場合、近隣の方とうまくいかない学校など、考えられないからだ。 学校とは地域と共にあるものだ。よく話を聞いてみると、今回の学校に反対しているというより、とにかく、今までの生活をそのままそっとしておいて欲しい、ということのようだ。 分からなくもない。これまで何十年も同じ生活を続けてきたのだから、いまさら、変化して欲しくないわけだ。 おそらく何ができるのも反対なのだろう。

覚書締結(1998/12/21)

土地の契約に先立って覚書を締結した。測量後、正確な面積が確定しだい契約するという内容の覚え書きで、面積は約6500坪。正式契約は来年早々となった。認可が出るかどうかがまだ不透明な段階で、これだけ大きな土地を先に購入するのは躊躇するが、土地を確保しないことには、開校に間に合わない。なにしろ、すぐに建物が建つという土地ではない。木を伐採し、岩を砕いて造成しなければならない。事前に造成してもらってから引渡しということも考えたが、学校を建築するという理由でない限り、造成に必要な開発許可がスムーズに出るとは思えない。現在の所有者のままでは、造成するのにかえって時間がかかりそうだ。学校法人に所有権を移し、学校建築という理由で造成するしかないという判断から、リスクを覚悟で土地の購入を先行させた。

校名

そろそろ校名を決めないといけない時期になった。八洲という名前は結構知名度が高いので活用したい。素直に考えと沖縄八洲学園高校か八洲学園沖縄高校だろう。沖縄が最適の地という自信に揺らぎはないが、校名に沖縄と入れるのには躊躇があった。沖縄という地名を入れることで、沖縄の人しか入学できないような印象になることを懸念したのだ。沖縄に代わる沖縄を示す言葉はないだろうか。そして、いきついたのが「国際」だった。沖縄は米軍基地があることから、外国人が多い。基地近くでは英語の看板も目立つ。那覇のメインストリートも「国際通り」という。 国際を校名につけると外国語教育を行っているような印象になるが、沖縄にふさわしい言葉には違いない。 ということで、「八洲学園国際高等学校」に決まった。

誘致決議(1992/12/22)

地元の方に納得してもらうためには、今回の学校設置が町にとって重要であることを意思表示してもらうことが必要と考えた。そこで、町議会で誘致決議をしてもらった。誘致といってもなんら金銭的な補助はない。しかし、決議する以上は、どんな学校かはしっかり調査する必要ある。そこで、何名かの町議員の方が、八洲学園高校を視察された。また、私からも議会に対して詳しく今回の計画の内容を説明し、無事誘致決議が可決された。こうなると、町の手続きはスムーズに進む。広い土地を造成するため開発許可(学校用なので実際には許可は不要だが、不要だと言う決定をもらうのが許可をもらうのと同じだけ大変)、森林を伐採するための許可、建物を建てるための許可、幹線道路から校地まで道を町道に移管するための手続きなどなど、さまざまな手続きがあるが、誘致決議があればスムーズに運ぶことが期待できる。 土地を購入するにあたり、隣地の所有者に承諾のハンコをもらう必要があるが、これも町が協力してくれた。 そして、高校の認可申請書にももちろん、誘致決議書を添付した。 町が誘致している案件を県が認可しないというのは、かなり勇気がいる。 まして知事と本部町は良好な関係である。

地元の了解(1999/01/06)

地元の理解を得るために本部町の教育委員会主催の校長先生向け研修会で学校の説明をすることになった。町内の小中高の校長先生が対象だ。開校すれば本部町に2校目の高校となり、地元との関係も重要となる。地元としては初の私学でもあり、通信制高校であるので、しっかり説明した。かなり理解いただいた感触だった。また、地元4区長さんに集まってもらって、今回のいきさつを説明(1999/01/12)。区長さんも納得してくれた様子。これで、地元からの反対はなくなると思われる。 誘致決議と町の協力があり、地元の方の理解も進んできた。もちろん、地元にメリットも必要である。 校舎の建築はすべて地元業者、食堂の運営やリネン類のクリーニングなどもすべて地元の業者を使うことを約束した。 もっとも、本土の業者がこんな遠方で仕事をしてくれるはずもないので、地元の方にやってもらうしかないという事情もある。 地元の住民の方向けの説明会も実施した。区長会でも説明した。 何度かの説明会の後も反対していた一部の家庭には、役場の方が個別に説得に回ってくれた。 ありがたい。私が必死に説明するより、地元の方の話の方が説得力がある。 そんな役場の方の努力のお陰で、ようやく地元の2つの地区の了解も取れた。

取材(1999/01/07)

本部町の役場から聞いたということで、地元新聞の記者から電話取材があった。認可や校地・校舎で手一杯でマスコミ対策をまったくしていなかったが、役場の方が気を利かせてくれた。助かる。電話取材だけで記事にしてくるそうだ。実際、取材の5日後には記事になった。沖縄には沖縄タイムスと琉球新報の2紙で圧倒的なシェアを誇り、この2紙が市場を分け合っている。逆に言えば、この2紙に載れば、すべての家庭にニュースが届くと思っていい。そのうちの1紙に載ったことで、かなり地元の認知が進むのではないだろうか。

知事に根回し(1999/03/08)

認可に向けた最後の段階になってきた。役場も県に対して積極的に働きかけてもらっているようだ。町長が知事に会った際に、学校の計画の概略を手渡したと連絡があった。知事も理解を示したそうで、うまく行けば、認可申請書は知事に直接渡すことになりそうだとの報告。知事、町長でスケジュールを調整中ということだった。これで認可はかなり現実的となったのではないだろうか。

文書学事課から電話(1999/03/09)

知事に計画の概要が伝わったからか、文書学事課からさっそく電話があった。文書学事課とは私立学校の認可を担当する課で、今回の窓口になっている。いよいよ認可を前提にしているという内容の質問だった。かなり具体的な細かな質問で、すぐに対応可能なものばかりである。さっそく必要な書類を揃えて提出の準備をした。その電話のあと、15日に認可申請を知事に手渡しすることになったとの連絡があった。正確には認可申請書ではなく、前段階で提出する「実施計画書」であるが、内容的には同じものになる。知事が直接受け取って、認可しないということは考えにくいので、あとは、県の指導にしたがっていけば、認可は間違いないだろう。

文部省へ挨拶(1999/03/12)

知事へ認可申請書を手渡しすることになった旨を文部省の担当者にも伝えた。認可はあくまでも県の専権事項なので、文部省としてコメントのしようはないのだろうが、予想通り無反応だった。私としてはお世話になったお礼のつもりだったが、お礼に対して反応するのも、なにか便宜を図ったと誤解されると思ったのかもしれない。なかなか役人というのも難しい仕事だ。

記者クラブへ(1999/03/16)

今回は、ちゃんとプレス対応もした。15日知事に設置計画書を提出する件を沖縄県庁記者クラブへ電話してみた。内容を伝え、詳しくはFaxを送った。興味を持っていたようなので取材があるかも知れない。

認可申請(1999/03/15)

知事に直接、学校設置計画書を提出した。 その際、事前に記者クラブに送っておいてリリースのお陰で、テレビカメラが3台と新聞社も何社か来ていた。 当然、県の担当者も同席していたが、これだけのマスコミが来ているとは思ってなかったのか、少し驚いた様子だった。 これで認可できないということになると、責任問題になるので、担当者には少し気の毒にも思ったが、またとない広報のチャンスが有効に使えた。 新聞は15日に琉球新報、16日に沖縄タイムスに掲載された。 テレビも帰りの那覇空港ロビーでたまたまテレビを見ていたら18時30分からの地元ニュースのトップで放送された。 全国放送でないのは残念だが、止む得ないか。

土地契約(1999/03/25)

遅れていた土地の契約を行った。引き渡しは4月16日と決まった。 大安なのだろう。私はぜんぜん気にしないが、不動産関係の人はかなり気にするようだ。 土地取引にあたっては、国土利用計画法に基づく土地売買等届出書や農業推進地域整備計画の変更の除外(いわゆる農進除外)、森林の伐採届、開発申請などの手続きが目白押しとなる。 これまで、東京や大阪では土地・建物の売買や建物の建築は何度となく経験があるが、これだけ大きな土地の売買や造成は初めてなので、知らないことがいろいろ出てくる。 多くの人の助けなくしてはとてもできない大変な仕事だ。 しかも、認可の日程を睨みながらになるので、かなりスケジュールがタイトである。 マンションデベロッパーやリゾートホテルの開発担当者の苦労が分かったような気がする。

土地決済(1999/04/16)

無事、土地の決済が終わった。億単位のお金を支払うことになるが、売主もプロなので、取引はスムーズにあっという間に終わった。 その足で、開発申請に関わる打ち合わせを行った。 既存の道路ではいくら道路を整備しても、道幅が足りずバスは通れないため、既存の道路を広げるか、新たに、近くを走る町道まで道路を作る必要が出てきた。 最終的に、少し土地を追加で購入して町道までの道路を新設することになった。 土地の所有者は町が誘致しているのだからと協力してもらえるとか。 少し追加費用は必要となるが、この方法の方がアクセスはよくなる。 県の担当者が異動で交代したというので、東京へ戻る途中に県に寄った。 今度の担当者は前の担当者以上に協力的だ。役人に対するイメージが変わったといってもいいかも知れない。

設計

その頃、校舎の設計も着々と進めていた。 もちろん、地元の設計士である。建物は教室棟、宿舎棟、食堂、職員室と4つに分けた。 1つの方が建築コストは安くなるが、あえて離した。 その理由は、できるだけ外に出て歩いてもらうためだ。 建物の中に閉じこもっていては沖縄の自然を体感できない。 教室へ行くのも、シャワーを浴びるのも、トイレに行くにも、ご飯を食べるにも、必ず一旦外へでる必要がある。 しかも、建物と建物の間に通路はない。一面芝生の上を、好きなように歩いて移動する。 宿舎はできるだけ居心地が悪くして、外に出たくなるようにする。 ここでは、効率的という言葉は無縁である。 のんびり沖縄の太陽の光を浴びながら芝生を踏みしめて歩く。 その視線の先には一面にエメラルドブルーの海と、リーフに打ち付けられた白い波が見える。 エアコンもつけない。沖縄は暑いという印象があるが、日陰はそれほど暑くならない。 エアコンを入れると寒暖の差で体調を壊す。 もっとも夜は寝つきが悪くなるので、宿舎にはエアコンをつけた(その後、教室にもエアコンを導入したが)。 暑ければ水を浴びればいい。将来はプールも作りたい。 プールに飛び込んでそのまま授業を受けるのも悪くない。 そのため、教室などは床が濡れても大丈夫な作りにした。 豪華にするのではなく、ここは自然を楽しむところ。いわば高級なキャンプ場というイメージだ。 もちろん、すべての教室から海が見える。宿舎からも海に沈む夕日が見える。 キャンプファイヤーができるスペースや飯ごう炊飯ができる場所も確保したい。 飯ごう炊飯は家庭科実習室の前が便利だ。書道実習のために水道、食堂に入る前に手を洗うための洗い場なんかも必要だろう。 お風呂はどうしよう。沖縄は湯船につかるというよりシャワーが主体の文化圏。 暑いところだから、ゆっくり湯船で温まるより、何度もシャワーで汗を流す方が合理的なのだろう。 そもそもいまどきの高校生が同じ湯船に入るだろうか。 ここは個室のシャワーブースを作るのがいいだろう。 職員室は、全体が見合わせる位置で、窓を広くとる。そうすることで、生徒さんの様子が一目でわかる。 校門は、シーサーが出迎え、椰子の並木を通っていくイメージだ。 設計士は、工期の短縮と言う別の課題を抱えながら、私のイメージを図面に落とし込んでいった。

各県の回答(1999/07/13)

認可にあたって、沖縄県から各都道府県に照会を行った。 他の県の高校生を沖縄の高校に入学させるわけだから、一応可否について意見を聞こうというわけだ。 これは必須要件ではないが、文部省が指導していると見られる。 その結果がぼちぼち返って来ているというので聞いてみた。どうも拒否の県がかなり多いようだ。 八洲学園が本部を置いている大阪府まで反対とか。まったく何を考えているのか。 もっとも、当然の結果なのであわてることはない。 少なくとも私学の通信制高校があれば、わざわざ沖縄の通信制高校のお世話にならなくても、大丈夫と考えるのは当たり前のことである。 あくまでも認可権限は沖縄県なので、他府県の意見に左右される必要はない。 沖縄県として判断してもらえれば良いのである。 もっとも、県の担当者としては、他府県から反対されていることを覆すわけだから、後押しも必要だろう。 そこで、知り合いの国会議員を通じて文部省に抗議してもらった。 文部省の言い分では、それぞれの県で生徒募集をする訳だから、各県の事情を考慮して同意(文書でも口頭でもいい)を得るのが望ましい、同意のない県はエリアからはずすように指導している、とのことだったが、それでは責任回避も甚だしい。 特に沖縄はいま、経済振興で躍起になっているので、それに水をさすような指導をすると、直接総理が出てくるような政治問題になる、と釘を刺したとのことだった。 かなり厳しい注文の付け方に私の方が少し驚いたくらいだ。 なお、この国会議員はあくまで友人としての付き合いしかなく、利害関係がないので念のため。

開校後の準備もスタート(1999/07/30)

認可のことだけをやってる暇はない。開校後に向けた準備も進める必要がある。 スクーリングをいつ実施するか、教員は、時間割は、履修登録は、飛行機の手配は、など教務的なことは、八洲学園高校のノウハウがあるので、八洲学園高校のある大阪に開設準備室を設置して、そちらで行うことにした。

文部省が譲歩(1999/08/03)

文部省の課長補佐から次のような回答があった。 「全国をエリアにする場合でも、各都道府県への照会の有無に関係なく沖縄県から届出があれば受理する。 その場合でも沖縄での教育環境は十分に整えるように。」 これで、全国47都道府県を生徒募集エリアに入れることが可能となった。

学事課から質問(1999/09/03)

この頃になると、私学審議会が近いからか、連日のように学事課から電話やFAXがある。今日も夜の9時11分にFAXが入った。遅くまで対応してもらってることに感謝。こちらも、まだまだこれから仕事という時間なので、その場で回答を作成して返信。こんなことを毎日続けている。質問もどんどん開校後の具体的な内容になってきている。認可という目標に向けて着々と進んでいると言う実感が沸いてくる。切羽詰ってきたのか、携帯にも電話がかかるようになってきた。この頃、担当者がまた異動で交代していたため、同じ内容をもう一度説明する場面もあり、ちょっと不安になることもあるが、認可しようという前提での質問ばかりなので、繰り返し回答することになっても嫌な気分ではない。

私学審議会(1999/09/09)

私学審議会が行われた。高校を認可するには、私学審議会の意見を聞かなければならないことになっている。 意見を聞くだけなので、反対であったも認可することはできるが、県としても無理に認可することは、その後の私学行政に支障するので、避けたいところだろう。 結論は、継続審議ということで、もう一度審議会を開くことになった。 次回の審議会の日程は、調整中で来週早々には決まるとか。継続になった理由は、沖縄でははじめての通信制高校で、さまざまな不安が委員から出て、意見がまとまらなかったということらしい。 知事の後援会サイドからも状況を聞いてもらったところ、学校設置には問題なく、4月開校に間に合わせなくては、という感じで、次回の審議会ではOKを出せるだろうということだった。 しかし、継続審議というのはかなり異例のことらしい。 県としては意見さえ出れば認可できるのだが、意見が遅れて認可が1年ずれ込むと言うのがもっとも恐れていること。 これは他府県ではよく聞く事態である。 認可自体は要件が整っていれば反対できないので、せめて遅らせようということらしい。 審議会は私学関係者が多いので、ライバルの進出を歓迎することはないわけである。 幸い、沖縄の審議会ではそのような雰囲気ではないということなので、次回には結論を出してもらえるだろう。

私学審議会通過(1999/09/30)

次の審議会に向けて、さまざまな説明資料の要求がほぼ毎日のように来る。 直接説明にも行った。沖縄県庁は那覇空港からタクシーで10分程度なので十分日帰りができてしまう。 沖縄へ日帰り出張と言うのはどうも寂しい。 しかし、そんなことを言っている場合ではないので、呼ばれれば飛んで行って説明をした。 その甲斐あってか、私学審議会は無事通過した。 これで「2000年4月開校予定」を謳って生徒募集ができることになった。

開発許可(1999/10/14)

開発許可もおりた。正確には開発許可の不要申請で、開発許可は必要ないというこ との確認だが、それをもらうための書類は開発許可をもらうのと同じだけ必要だ。 なにか矛盾を感じる。続けて建築確認申請もまもなく下りる見通しとなった。

開校準備

認可の見通しもつき、校舎の建築もスタートすることになったのにあわせて、開校準備も本格化した。 まず、担当者一人を沖縄へ転勤させ、現地の対応にあたらせた。 教科書の手配、入学案内の作成、願書受付・履修登録方法の決定、教具・事務機などの選定・購入などやらなければいけないことはいっぱいある。 生徒募集も本格化させるため、まず都内の学校訪問をスタートさせた。 当時に、八洲学園高校から新しい高校への転校希望者がいるかのアンケートも実施した。 アンケートの結果では約1割の生徒さんが沖縄の学校に興味を持ってくれた。 それだけで1000名になる計算だが、実際はどうだろうか。

着工(1999/11/24)

予定より1週間遅れてようやく着工。 4月開校まで4ヶ月しかないので、かなりの突貫工事になる。 もちろん、正月休みも返上での工事だ。工法も工夫して工期の短縮を図っている。 工事は現地でその場その場で決めながら進める事柄も多い。現地に転勤した担当者は長靴にヘルメット姿で連日がんばってくれた。 ちなみに、若い女性である。

職員採用(2000/02/20)

職員採用のための説明会を行った。 すでに求人票は各方面に送付してあったので、多くの方に来ていただけた。 学校の新設なので、教員だけでなく事務や校務の方も採用しなければならない。 教員は八洲学園高校からの転勤でカバー可能だが、事務や校務はそうはいかない。幸い、いい人が多数応募してくれた。

私学審議会委員視察(2000/02/25)

私学審議会委員が現地を視察した。最終的な認可にあたっての確認である。 ここで4月の開校に向けて工事がちゃんと進捗しているかを確認するわけだ。 実際、まだまだ工事は進んでいない。4月に使える状態になるかといわれれば「NO」である。 しかし、実際に第一回スクーリングを行うのはサミットの開催時期を避ける意味からも7月を予定している。 7月には十分間に合うということで、了解してもらった。後は正式な認可を待つだけとなった。

全国の都道府県回り

開校しただけでは生徒さんは来てくれない。そこで、まず全国の都道府県の教育委員会や私立学校を担当している部署へ挨拶に行くことにした。私は東日本を担当することになった。関東を回るのは簡単だが、東北は結構時間がかかる。仙台から青森へ行くなら、一旦東京へ戻って飛行機で行った方が早いのではと思うほどだ。とにかく全国を回り、開校の挨拶をした。なぜ挨拶が必要かと言えば、その県の人が入学を考えた場合、聞いたことのない高校名なら、県に問い合わせをする場合がある。その際に、県の担当者が知らないと「そんな高校はありません」と回答してしまう。それだけは困るというわけだ。もちろん、中退した生徒さんに紹介してください、というお願いもするが、最低限、沖縄県認可の通信制高校であるという認識だけはして欲しい。

校歌

新しく学校を作るわけだから校歌や校章も必要となる。校章は八洲学園高校と同じもので良いとしても、校歌は歌詞に八洲学園高校を示す固有名詞が入ってるため、そのままでは使えない。せっかくだから新しく作りたい。そんなときに、沖縄に転 勤した職員が、ある沖縄在住のシンガーソングライターと知り合いになった。kiyomiさんだ。フレコン全国大会において小室哲哉氏率いるTMネットワークらと共に金賞を受賞したり、沖縄タレントアカデミーで「亜波根綾乃」、「仲間由紀恵」などの歌唱指導をしていた実力派だ。 地元志向ということで、メジャーデビューを断り、沖縄でライブを中心に活動している。そんなkiyomiさんに、校歌を作ってもらえないかと依頼したところ、快諾いただいた。学校のイメージを伝えるため、建築中の校舎も見てもらい、学校設立の経緯や趣旨を話した。そしてできあがった校歌は、沖縄音階を使った沖縄らしく、やさしいものだった。かなり気に入っている。

認可(2000/03/31)

すでに認可は確実となっていたが、正式に認可となると、やはり感慨も深い。最初に沖縄へ行ってから1年半。具体的に考え出してから2年。学校の新設としては非常に短いかも知れない。しかも、これまでにないまったく新しい形の高校を作るにはあまりにも短いかも知れない。十分な準備ができていないという批判も受けるだろう。しかし、開校は2000年4月でなければならないという思いがあった。2000年という区切りだということもあるが、この年は沖縄でサミットが開催される。沖縄は世界から注目される年である。この記念すべき年に沖縄に新しい学校が誕生する。このタイミングにどうしても間に合わせたかった。そのおかげで、回りのみなさんにはかなり無理を言ったかも知れない。ご協力しただいた方には感謝してもしきれない。この学校の開設で知り合った沖縄の方は、みなさん親切でやさしかった。だからこそ、この学校は沖縄に作って良かったと改めて確信した。

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